湊橋(みなとばし)

湊橋の創架は、1679年に霊岸島、箱崎間に架橋され、湊橋の名は、江戸湊口に由来します。湊は入り江や港のことで、まさにここは江戸湊口ですね。

現在の湊橋は、1928年に改架されたスマートな鉄筋コンクリート3連アーチ橋。湊橋の西側は、茅場町から霊岸橋を渡ると新川、江戸時代は、越前堀と呼ばれていました。

日本橋川は霊岸橋から分流し、その支流は亀島川と呼ばれ、亀島川は、日本橋水門から亀島川水門迄の全長1、1キロメートルの一級河川で、亀島川に架かる橋は、霊岸橋、新亀島橋、亀島橋、高橋、南高橋の5つです。

新川の中央に位置する越前堀児童公園に、霊岸島の碑と霊岸島の由来の案内板が立っています。1624年に霊巌雄誉上人が法力で霊岸島を造ったと云われ、中ノ島、こんにゃく島と呼ばれたこの島には、落雷がなく、南天の実が付かない土地と伝えられていました。

湊橋の外観

湊橋の外観です。スマートな橋です。橋の全体写真を撮影する場所に苦労しました。辛うじて隙間を見つけ何とか撮影出来ました。

橋の雰囲気や親柱の名前からとてもスマートな印象を受ける湊橋です。湊は港のことで「江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられた」と説明板に記録されていました。
また、この湊橋は昔、霊巖島と対岸の箱崎の埋立地を結ぶために架けられたそうです。
そして、霊巖島は地盤が蒟蒻のようにゆるいということからこんにゃく島と呼ばれていたと言う説があるそうです。

湊橋の説明

この橋は、霊巖島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。)と 対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。
この地域は江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西〔上方〕を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。
『江戸名所図会』によると、この橋は当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。
橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。
現在の橋は関東大震災後の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。
橋の諸元
 型式=三径間コンクリートアーチ橋
 橋長=49.68m、有効幅員=18.0m(車道11.0m、歩道3.5m×2)
 着工=昭和2年5月、竣工=昭和3年6月、総工費=208,000円
 施工者=東京市
平成2年3月、中央区

霊巖島の説明

当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
寛永元年(一六二四)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏みだし、同十一年(一六三五)
には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南三面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起る原因となった。
 明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町 町が、替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川ロ町、長崎町、霊岸島町、銀町、東港町、新船松町、越
前堀、南新堀の十三町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一、二丁目・越前堀一、二、
三丁目と改称され、更に昭和四十六年住居表示制度の実施により新川一、ニ丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
昭和五十二年三月  霊巌島保存会

湊橋の親柱

湊橋の親柱。

湊橋の飾り

湊橋の飾り。樽廻船の船ですね。

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