一石橋(いちこくばし)

一石橋は「いちこくばし」と読みます。
一石の由来は江戸お得意のシャレらしい。昔、2人の後藤さんが近所に居て後藤を五斗に変換し、それが2つで一石(いちこく)。 まあ最近はあまり、使わない単位ですからピンとこないけど、江戸時代には受けたんでしょうね。
尚、五斗は約90リットルで一石は180リットルとなります。

一石橋の創架は、江戸時代初期と云われています。1922年に架橋された鉄筋コンクリート製アーチ橋は、関東大震災に崩壊する事無く 1973年に付替えられるまで残存した。現在の一石橋は、2001年に架橋された2スパン銅製桁橋。

しかし、一石橋の由来には幕府が通用禁止の 「永楽銭一貫」 と「 米一石」 を交換したことに由来するとする説もあるそうです。
中央区教育委員会はシャレ説を支持しています。どちらが正しいのでしょうか? または更なる説があるのか?

一石橋の外観1

上流左側から見た一石橋の外観です。上は高速道路

一石橋の外観2

上流右側から見た一石橋の外観です。

一石橋の親柱

一石橋の威風堂々とした花崗岩の親柱。

一石橋の親柱の説明

中央区民文化財 「 一石橋の親柱」
所在地 八重洲一町目十一番先
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。
当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、 南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、 日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治六年(一八七三)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。
大正十一年(一九二二)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。
関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。
平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
平成十五年三月
中央区教育委員会

一石橋迷子しらせ石標

一石橋迷子しらせ石標は、江戸時代、河岸の家主たちが建立した庶民の告知板です。石柱の正面に朱で「満よひ子の志るへ」、左面に「たつぬる方」、右側に「志らする方」と刻み、年頃、面体、格好、履物、衣類などを書いた紙を貼るようになっています。
人が多かった証ですね。

一石橋迷子しらせ石標説明

一石橋迷子しらせ石標
所在地 中央区八重洲一町目十一番地先
指 定 昭和十七年九月   旧跡
     昭和五十八年五月六日種別変更
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(一八五七)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側には、「志(し)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。
利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。
このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。
平成八年三月八日 建設
東京都教育委員会

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