鎌倉橋(かまくらばし)

鎌倉橋は、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。 関東大震災の復興橋の一つで、1929年の架橋で、コンクリ−ト橋です。

名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

鎌倉橋の地下に、東京メトロ丸の内線が走っている。開業は1954年、路線名は、東京駅付近の地名の丸の内から由来。

鎌倉橋の北側に鎌倉橋河岸跡、鎌倉町が、現在内神田1丁目に御宿稲荷神社が鎮座。

鎌倉橋の外観

鎌倉橋の外観です。

鎌倉河岸は、家康が江戸入城の際に、鎌倉から材木商が江戸城築城の建築部材を取り仕切っていた。鎌倉の材木海岸から運ばれた江戸の荷揚げ場を鎌倉河岸と呼ばれた。

鎌倉橋の親柱

鎌倉橋の親柱。

御宿稲荷神社(みしゃくいなにじんじゃ)は、天正の昔、徳川家康公が関東に移封になった際に武蔵国神田村の郷士の家に投宿されました。 その庭に宇迦能御魂の神祠があり、後に幕府より公が足跡をとどめられた記念として社地の寄進がありましたので、ここに御宿稲荷として崇め奉りました。なお、公の入城後、この地に三河国よりの臣下が永住することが年々増加し、ついには三河町と称するに至りました。 以来、当社への衆庶の崇敬は歳月と共に加わりつつ今日にいたりました。1933年に神殿の改修をしました。

神田鎌倉町と鎌倉河岸の説明

神田鎌倉町・鎌倉河岸

神田鎌倉町と鎌倉河岸の説明

神田鎌倉町・鎌倉河岸
 天正(てんしょう)十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長(けいちょう)八年 (1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請(ふしん)に乗り出します。
 家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦(めいれき)三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
 江戸城築城に際して、家康が近江(おうみ)から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方(さくじかた)の大棟梁(だいとうりょう)として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺(ぞうじょうじ)、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました

神田鎌倉町と鎌倉河岸の説明

 また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園(おじまこうえん)のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。  昔、潮入(しおい)りの葦原(あしはら)だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤(あつ)い信仰を寄せていた「浦安稲荷(うらやすいなり)神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保(てんぽう)十四年(1843)に遷座(せんざ)され、現在は神田明神(かんだみょうじん)の境内にあります。
 「出世不動尊」は、一橋(ひとつばし)徳川家の表鬼門除(おもてきもんよ)けとして祀(まつ)られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師(ちしょうだいし)の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。

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