一ツ橋(ひとつばし)

一ツ橋は、錦橋の上流約200メートルの所にあります。一ツ橋一丁目と大手町一丁目の間から、一ツ橋二丁目と神田錦町三丁目の間に通じています。

江戸時代の一ツ橋門跡近くです。徳川家康の入国頃は大きな丸木が一本架けられていたことが一ツ橋の名の起こりと伝えられています。 近くに松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋とも呼ばれていました。

一ツ橋は、一ツ橋御門として濠の内外を繋いでいた。御門から橋詰広場、高速道路のランプとして変遷。一ツ橋御門の石垣が残存。

5代将軍綱吉が1688年に、一ツ橋に護持院を建立。1717年に火事で焼失し、護国寺に移転した為に一ツ橋の辺り神田錦町一帯は「護持院ヶ原跡」と呼ばれる江戸中期以降、広大な荒れ野原の火除け地となった。「護持院ヶ原」は、森鴎外の有名な作品として、小説では敵討ちの舞台になっている。

一ツ橋の外観

一ツ橋の外観です。上は首都高速。

一ツ橋の親柱

一ツ橋の親柱。ペンキが侘しいさを誘う。

一ツ橋をくぐる船

一ツ橋をくぐる船です。

一ツ橋の作成年

一ツ橋
 この橋を一ツ橋といい、内濠川に架かる見附橋です。徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(一六二四〜一六四三)には、一ツ橋とかかれています。
 橋の近くに、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
 明治六年(一八七三)一ツ橋門を撤去、現在の橋は大正十四年(一九二五)架設、長さ一九.六メートル、幅二八メートル、コンクリート造り。
 橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。
 平成元年十一月
         千代田区教育委員会

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